Water is Taught by Thirst

音楽、社会、思想、その他

「表現としての音楽」と「福祉としての音楽」

私は約3年前に社会福祉の勉強を始め、殆どその時期に音楽を断念せざるをえなかったが、これまでに幾つかの医療・福祉系のお仕事で音楽をやらせてもらい自分なりに音楽とは何か?音楽療法とは何かについて考えてきた。以下は随筆的に「何が通常の意味での音楽、或いは表現としての音楽と音楽療法、或いは福祉としての音楽を分かつのか」について、またこれらのカテゴリーを超えた新たな音楽の在り方について私見を述べてみたいと思う。


まず、音楽療法と通常の音楽との違いについてである。これについてまず思い浮かぶのが、音楽を療法的に実践する場合すなわち音楽療法では音楽を演奏する/聴取するという行為はそれだけに留まらないより複合的な意味合いを持つということである。それは例えば「セラピー(療法)としての効果」だったりその音楽療法の行為が実施されるシチュエーション(状況)の問題だったりする。


まず「効果」についてである。音楽の効果とはその音楽の与える影響のことであり、これについて通常の音楽と音楽療法ではそのアプローチが異なると考える。通常の音楽を演奏する場合、「効果」や影響についてはそこまで考えられていない。何故なら通常の音楽における演奏は芸術的表現行為の一種であり、そこでは音楽の表現性が重視されるからである。音楽の表現性とは西洋音楽(クラシック)の場合、作曲家の表現しようとしたものと演奏者の表現しようとするものの合体したものであり、或いは演奏者は自己表現はせずに作曲家の表現に忠実であることに徹するという立場もあるが、いずれにしてもその個の表現の内容が重要になる。そして内容が重要であるが故に表現者(つまり作曲家や演奏家)の表現の自由が担保されるのである。そして或る意味では表現者はその表現の結果については責任を負わないのである。何故なら結果に責任を負うてしまえばそれは表現の自由を拘束するからである。そしてこの表現の持つ結果への責任という側面において音楽療法は通常の音楽とは根本的に異なると言えるだろう。何故なら、言うまでもなくセラピーとしての音楽に期待されているのはセラピーの「効果」であるからである。通常の音楽にはそれが無い。


しかしそうは言ってもセラピーとしての音楽療法に全く自己表現の要素が無いと言っているわけではない。やはり音楽は一種のコミュニケーションのツール(手段)であり何かを伝える為には心を込めて演奏する必要がある。ここで大きく異なるのは主体の在処(ありか)であろう。通常の音楽において主体の在処(ありか)作曲者或いは演奏者にあるが、音楽療法における主体は聴く側にある。そして聴く側を主体に音楽の演奏行為/聴取行為を捉えたときにセラピスト側の表現性の意味は完全に無くなるわけではないが、前景から後景に退くのである。


当然ながら、音楽療法であってもセラピストが何らかの形で演奏に携わるのであれば、その演奏行為における表現性が完全に消失することはあり得ない。例えば、或る演奏がその表現性において共感を呼び起こすのであれば、その演奏はセラピーとしての効果を十分に持っており音楽療法としての可能性をすでに持っていると言うことが出来るのである。但しその演奏を以って即座に音楽療法であると言えるかはその演奏行為の主体が演奏者の側にあるのか、それとも聴き取る側にあるのかに依る。もしその演奏を以って聴き手側を主体にするならばその演奏は既に音楽療法としての素地を備えている。しかし演奏者側を主体とするならばそうではない。喩えその演奏によって聴く側に共感が呼び起こされ、何らかの「効果」が結果的に現れたとしても、である。何故なら治療者が主体のセラピーなど存在しないからである。


つまり「音楽と音楽療法を分かつもの」は、第一義的にはその演奏する/聴くという行為における主体性の在処(ありか)だというのが私の考えである。そして、それは「治療としての効果」に先んじてそうなのである。また逆に言うと通常の演奏という装いを持っていたとしてもセラピーとしての音楽(=音楽療法)は可能だということである。治療する側が主体であるような治療など存在しないことは自明であるだろうが、通常の音楽において主体が演奏する側であるか聴く側であるかはそこまで自明ではないと言うかもしれない。しかし自明なことは、クラシック音楽を培って来たブルジョア文化圏にせよ、それ以外の例えば大衆音楽の文化圏にせよ、音楽は社会関係の上に成立しており、この社会関係を無視しては音楽そのものさえも成立しないであろうという事実である。このことから音楽を要請する側としての「聴く側」を無視するような音楽はその存続自体が危ぶまれるということである。


音楽の存在が前提する社会関係とは時代時代によっても相対的であると言えるが、高齢化など福祉的なニーズがますます高まっている今日、「セラピーとしての音楽」が要請され始めていることはほぼ間違いないだろう。その中で音楽療法はますます盛んになっていくであろうが通常の音楽というシチュエーションであっても音楽のセラピー的側面、つまり福祉としての音楽を意識しても音楽そのものは損なわれないと思うのである。無論、純粋なる表現としての音楽はそれ自体としての存在意義を失うどころか更に得るだろうし、主体を聴く側に置いた演奏=セラピーや有目的的音楽も表現する側に置いた演奏=芸術音楽も互いに補い合いながら発展していくだろう。要は両者の分かれ目を意識することであると言えないだろうか。