無可有庵

音楽その他ついて

音楽の原風景へ〜8/13の演奏会を終えて

 8/13の演奏会を何とか終えることが出来ました。ご来場くださった皆様、本当に有難うございました。コンサートの時間と台風8号が見事に重なりキャンセルが続出し、またコロナ感染者数も高止まりを続ける中での何とかの開催でした。重ねて御礼申し上げます。

 私はこれまでに数十のコンサートを企画し、そこで毎回自作曲の新作を発表して来ましたが、新たな曲の作曲と企画をセットに考えて来たことで、比較的リアリスティックに音楽を演奏会という文脈の中で考えて来られたと思っています。勿論、演奏会を企画する上でまず大事なことに集客があることは言うまでもありません。そして、お客様には勿論知り合いが含まれますが、それだけではありません。見ず知らずの初めて出会い初めて私の音楽に触れる方もいらっしゃいます。音楽を含めた表現活動が全てお客さん(聴衆)の満足のためにあるかと言われればそれは否でしょうが、やはりお客さん(聴衆)を抜きにして演奏会は成立しないというのも事実です。 

 つまり新たに曲を書く(=作曲する)にせよ、既存の曲を演奏するにせよその先に未知なる聴衆という存在が必ずあるということです。そして音楽の時間を通じてその未知なる聴衆と出会い関係性を築くことが作曲や演奏という行為の中に織り込まれている。こうなると音楽会の非日常的空間がいかに密接に生活の場の日常的な空間に直結するかが分かるでしょう。何故なら「聴衆との関係性を築くこと」は「共感」を前提としており、「共感」は音楽の時間だけで成立するものでもないからです。

 絵画に喩えてみると、まず作者のイメージする原風景があります。そしてそれを手掛かりにして作品の表現があります。その絵画を観る観衆は作者の創作プロセスとは無関係に謂わば偶然にその作品と出会うわけですが、それにも拘らずそこには観衆がその作品にあるいはその作品の作者に「共感」する余地があるわけです。それは作者が描こうとした原風景のイメージと作品が完成するまでのプロセスすなわち作者にとっての日常と観衆の生きてきた日常が共鳴することによって生まれるのではないでしょうか? 

 音楽会を共感の生まれる場と定義すればそこで媒介される音楽も出演者(表現者)と観客の関係性も理解しやすくなるかもしれません。観客へのサービスという視点から見れば療法(セラピー)的な側面もあるでしょうし、表現者によるカタルシスの触媒作用という視点から見れば出演者(表現者)は会合の主導者のような側面があるでしょう。

 いずれにしても音楽会は観客抜きには成立しえず、そこに共感の場が生まれることがよってはじめて会が意義を持つであろうというのがこれまでの経験、そして今回の演奏会を終えての感想です。「音楽の原風景」とは「共感の場」にほかならないのだという原則を心に留め、次企画の準備に入りたいと思います。