Möbius

音楽、社会、思想、その他

Just Music in Koganei Vol. 5

「Just Music in Koganei Vol. 5」
 来年2月23日(金)に演奏会を開催します。今月は引っ越しや教室のクリスマス会などがあり、時間が矢のように過ぎていきますが、音楽と向き合える時間が少しでもあることに感謝しています。(更に大きなプロジェクトも進行中ですが、こちらについてはまた後々公開します。)
 世界ではそれどころではない地域がたくさんあり、日本は本当に平和で安全な素晴らしい国だと思います。(ここに住めていることは幸せであると思わざるを得ません...)
 「音楽と社会」というテーマはあまりに大きくあまりに複雑ですが、勉強していくと世界で起きていることと自分の営みとが繋がっていることに気が付きます。たとえ小さな存在だったとしても音楽家として自分が世界(広い意味での社会)と繋がっていけたらと思います。

実証主義批判からバッハへ

実証主義批判からバッハへ
 
 最近、こちらの本(『ニュー・ミュージコロジー:音楽作品を「読む」批評理論』)を紐解いておりました。圧倒的に面白い内容ですが、訳書である為にやはり原著にあたるとより分かり易いです。例えば一つ目の収録はジョセフ・カーマンによるもので、実証的研究(positivism)が中心であった音楽学に対しての批判という意味での「ニューミュージコロジー」について書かれています。それは音楽という営みの自律性(autonomy)という大変に大きなテーマに直結します。つまり音楽学という比較的新しい学問は最近まで他の人文学の領域とはあまり接点を持たず、実証主義的以外のポストモダンなアプローチは顧みられていなかったという事です。
 この事がイギリスでも話題に上がっていると聞くdecolonization(脱植民地主義)の流れに連なります。「客観的真実」(objective  truth)への疑義は私の理解ではフリードリヒ・ニーチェは勿論、フロイトマルクスなどの思想家によっても提示されていますが、社会との繋がりから全く切り離された状態で「自律性」を以て発展してきた(西洋)音楽が「社会の中」で自らの立ち位置を定めるにはこうした批判的視点を取り入れる事は必須であると考えます。
 これに関連して読んでいるのが『バッハの生涯と芸術』(フォルケル著/柴田治三郎訳)です。現代のような複製技術のなかった時代における音楽作品を再現する事の意味について探る為です。「客観的事実」を記録から推測する事は出来ますが、より現実的なのが「口伝え」だったりします。たとえ地理的・時間的に離れていても、様々な媒体を通して手にする事の出来る作品の原型について探ろうとする事は知的好奇心を刺激する



最高の愉しみの一つです。

音楽と国境について (About Music and National Borders)

しかし以前、世界情勢に鑑みてロシアの演奏家のコンサートがキャンセルになったり、ロシア人作曲家の作品の演奏が取りやめになったといったニュースを耳にしたが、全く本質を捉えていないと思う。それなら世界中でロシア音楽とウクライナの音楽を一緒にやれば良い。そうすれば戦争を仕掛けた側も猛省するだろう。世界で起きている紛争が全て無くなる日はもしかしたら来ないのかも知れないが、だからこそ音楽による祈りの力は意味を帯びてくるに違いない。 When before I heard the news of musicians from Russia and music of Russia being cancelled from the program, I felt odd because the political intention to keep anything Russian away from the international music scene have nothing to do with what music should serve. I wondered why don’t they instead program music of both Russia and Ukraine in the same concert, which I’m sure would let the oppressor know of his own mistakes. No days when all conflicts will be resolved shall come, however for that same reason music shall become a prayer.

ピアノ教育法から文化芸術について思考する

最近、アメリカ人子弟にもピアノを教えている。上級者ではないけど、それだけに難しさも感じている。英単語が出て来ないでもやもやしながらあとで調べるということもよくある。そしてアメリカのピアノ教育のYouTubeを見たりするのだけど、やはりアメリカとヨーロッパ、日本ではピアノ教育のアプローチが大分違う気がしている。単純化して言うと、やはりヨーロッパは伝統であり本場である。アメリカは多数のヨーロッパからの移民で成り立ってきているけど、ヨーロッパだけではない。アフリカ系、インド系、アジア系、南アメリカ系などが同じように文化を形成してきており、独自の「アメリカ文化」を築いてきた。それは芸術(アート)や音楽に顕著に表れている。ではそのヨーロッパ、北アメリカ、日本における教育やアート・音楽観の違いとは何だろうか?

まずヨーロッパは私は住んだことがないので除外するが、アメリカと日本の文化(カルチャー)の大きな違いは、アメリカではどんなにアートを極めたとしても芸術家も一市民でありその芸術がhumanity(人間性)の向上に貢献したと見做されて初めて評価を得るということだと思う。逆に理論的な裏付けがあったとしても社会を転覆させる可能性を含むものは評価されず、その代表としてマルクスレーニンが挙げられるだろう。

反対にヨーロッパ、特にドイツ・フランスの影響の色濃い日本は対照的だと思う。日本文化において「humanity(人間性)の向上」は定義されておらず、それは日本のアイデンティティを問う時に直面する問題である。逆に言うと音楽を含めカルチャーの位置付けが日本では明確でないから、技術偏重やドグマチズム(教条主義)に陥り易いのだと思う。

では音楽を含んだ文化(カルチャー)が貢献すべきhumanity(人間性)とは何か、何であるべきか?という問いは難しい。しかし私はそれこそが文化(カルチャー)の根底にあるものだと考えている。そしてそれは国家の体制にアンチな立場も取り得る。だから人間性を要請するような国家であるアメリカにおいて芸術は制限を受けており、逆に日本の方が自由であるとも言える。

しかし、いずれにしてもテクニックばかりで人の心に共鳴しない音楽というものはhumanity(人間性)どころか文化(カルチャー)にさえ貢献しないだろう。そして欧米崇拝に傾きがちな日本の文化芸術も外を追いかけるばかりではなく自らの文化(カルチャー)を真の意味で創造していくことが大事だと思う。

音楽と異文化交流

音楽学研究と言うと大袈裟ですが、最近になってようやく楽曲の背景に関心を持つようになりました。以前、友人に200年前の同郷人より地球の反対側に住む同時代人の方が遥かに理解し易いと言われてなるほどと思いましたが、ではBeethovenは地球の反対側に住む200年前の人なので、さらに理解し難いという事になります。

異文化理解とは何なのだろう?或いはこれに当然ながら含まれる他者理解とは?言えることは、異文化交流をする時に、勿論言語の違いはありますが、それをクリアしたとしても異文化理解の問題が立ちはだかり、これなくして他者理解には行き着かないだろうという事。そして資本主義・産業社会によって流通している外国の音楽を弾くとは、そこに異文化交流の側面があるという事。

まず音楽という言語を学び、それから曲の文化的背景の理解に入る。文化的背景が理解出来なくても、さらには言葉が出来なくても友達になる場合もあるかも知れない。しかし、特にこの同質的力学の強い日本で音楽を通じて異文化交流を行うことは全然悪くない。

 

音楽の原風景へ〜8/13の演奏会を終えて

 8/13の演奏会を何とか終えることが出来ました。ご来場くださった皆様、本当に有難うございました。コンサートの時間と台風8号が見事に重なりキャンセルが続出し、またコロナ感染者数も高止まりを続ける中での何とかの開催でした。重ねて御礼申し上げます。

 私はこれまでに数十のコンサートを企画し、そこで毎回自作曲の新作を発表して来ましたが、新たな曲の作曲と企画をセットに考えて来たことで、比較的リアリスティックに音楽を演奏会という文脈の中で考えて来られたと思っています。勿論、演奏会を企画する上でまず大事なことに集客があることは言うまでもありません。そして、お客様には勿論知り合いが含まれますが、それだけではありません。見ず知らずの初めて出会い初めて私の音楽に触れる方もいらっしゃいます。音楽を含めた表現活動が全てお客さん(聴衆)の満足のためにあるかと言われればそれは否でしょうが、やはりお客さん(聴衆)を抜きにして演奏会は成立しないというのも事実です。 

 つまり新たに曲を書く(=作曲する)にせよ、既存の曲を演奏するにせよその先に未知なる聴衆という存在が必ずあるということです。そして音楽の時間を通じてその未知なる聴衆と出会い関係性を築くことが作曲や演奏という行為の中に織り込まれている。こうなると音楽会の非日常的空間がいかに密接に生活の場の日常的な空間に直結するかが分かるでしょう。何故なら「聴衆との関係性を築くこと」は「共感」を前提としており、「共感」は音楽の時間だけで成立するものでもないからです。

 絵画に喩えてみると、まず作者のイメージする原風景があります。そしてそれを手掛かりにして作品の表現があります。その絵画を観る観衆は作者の創作プロセスとは無関係に謂わば偶然にその作品と出会うわけですが、それにも拘らずそこには観衆がその作品にあるいはその作品の作者に「共感」する余地があるわけです。それは作者が描こうとした原風景のイメージと作品が完成するまでのプロセスすなわち作者にとっての日常と観衆の生きてきた日常が共鳴することによって生まれるのではないでしょうか? 

 音楽会を共感の生まれる場と定義すればそこで媒介される音楽も出演者(表現者)と観客の関係性も理解しやすくなるかもしれません。観客へのサービスという視点から見れば療法(セラピー)的な側面もあるでしょうし、表現者によるカタルシスの触媒作用という視点から見れば出演者(表現者)は会合の主導者のような側面があるでしょう。

 いずれにしても音楽会は観客抜きには成立しえず、そこに共感の場が生まれることがよってはじめて会が意義を持つであろうというのがこれまでの経験、そして今回の演奏会を終えての感想です。「音楽の原風景」とは「共感の場」にほかならないのだという原則を心に留め、次企画の準備に入りたいと思います。

「表現としての音楽」と「福祉としての音楽」

私は約3年前に社会福祉の勉強を始め、殆どその時期に音楽を断念せざるをえなかったが、これまでに幾つかの医療・福祉系のお仕事で音楽をやらせてもらい自分なりに音楽とは何か?音楽療法とは何かについて考えてきた。以下は随筆的に「何が通常の意味での音楽、或いは表現としての音楽と音楽療法、或いは福祉としての音楽を分かつのか」について、またこれらのカテゴリーを超えた新たな音楽の在り方について私見を述べてみたいと思う。


まず、音楽療法と通常の音楽との違いについてである。これについてまず思い浮かぶのが、音楽を療法的に実践する場合すなわち音楽療法では音楽を演奏する/聴取するという行為はそれだけに留まらないより複合的な意味合いを持つということである。それは例えば「セラピー(療法)としての効果」だったりその音楽療法の行為が実施されるシチュエーション(状況)の問題だったりする。


まず「効果」についてである。音楽の効果とはその音楽の与える影響のことであり、これについて通常の音楽と音楽療法ではそのアプローチが異なると考える。通常の音楽を演奏する場合、「効果」や影響についてはそこまで考えられていない。何故なら通常の音楽における演奏は芸術的表現行為の一種であり、そこでは音楽の表現性が重視されるからである。音楽の表現性とは西洋音楽(クラシック)の場合、作曲家の表現しようとしたものと演奏者の表現しようとするものの合体したものであり、或いは演奏者は自己表現はせずに作曲家の表現に忠実であることに徹するという立場もあるが、いずれにしてもその個の表現の内容が重要になる。そして内容が重要であるが故に表現者(つまり作曲家や演奏家)の表現の自由が担保されるのである。そして或る意味では表現者はその表現の結果については責任を負わないのである。何故なら結果に責任を負うてしまえばそれは表現の自由を拘束するからである。そしてこの表現の持つ結果への責任という側面において音楽療法は通常の音楽とは根本的に異なると言えるだろう。何故なら、言うまでもなくセラピーとしての音楽に期待されているのはセラピーの「効果」であるからである。通常の音楽にはそれが無い。


しかしそうは言ってもセラピーとしての音楽療法に全く自己表現の要素が無いと言っているわけではない。やはり音楽は一種のコミュニケーションのツール(手段)であり何かを伝える為には心を込めて演奏する必要がある。ここで大きく異なるのは主体の在処(ありか)であろう。通常の音楽において主体の在処(ありか)作曲者或いは演奏者にあるが、音楽療法における主体は聴く側にある。そして聴く側を主体に音楽の演奏行為/聴取行為を捉えたときにセラピスト側の表現性の意味は完全に無くなるわけではないが、前景から後景に退くのである。


当然ながら、音楽療法であってもセラピストが何らかの形で演奏に携わるのであれば、その演奏行為における表現性が完全に消失することはあり得ない。例えば、或る演奏がその表現性において共感を呼び起こすのであれば、その演奏はセラピーとしての効果を十分に持っており音楽療法としての可能性をすでに持っていると言うことが出来るのである。但しその演奏を以って即座に音楽療法であると言えるかはその演奏行為の主体が演奏者の側にあるのか、それとも聴き取る側にあるのかに依る。もしその演奏を以って聴き手側を主体にするならばその演奏は既に音楽療法としての素地を備えている。しかし演奏者側を主体とするならばそうではない。喩えその演奏によって聴く側に共感が呼び起こされ、何らかの「効果」が結果的に現れたとしても、である。何故なら治療者が主体のセラピーなど存在しないからである。


つまり「音楽と音楽療法を分かつもの」は、第一義的にはその演奏する/聴くという行為における主体性の在処(ありか)だというのが私の考えである。そして、それは「治療としての効果」に先んじてそうなのである。また逆に言うと通常の演奏という装いを持っていたとしてもセラピーとしての音楽(=音楽療法)は可能だということである。治療する側が主体であるような治療など存在しないことは自明であるだろうが、通常の音楽において主体が演奏する側であるか聴く側であるかはそこまで自明ではないと言うかもしれない。しかし自明なことは、クラシック音楽を培って来たブルジョア文化圏にせよ、それ以外の例えば大衆音楽の文化圏にせよ、音楽は社会関係の上に成立しており、この社会関係を無視しては音楽そのものさえも成立しないであろうという事実である。このことから音楽を要請する側としての「聴く側」を無視するような音楽はその存続自体が危ぶまれるということである。


音楽の存在が前提する社会関係とは時代時代によっても相対的であると言えるが、高齢化など福祉的なニーズがますます高まっている今日、「セラピーとしての音楽」が要請され始めていることはほぼ間違いないだろう。その中で音楽療法はますます盛んになっていくであろうが通常の音楽というシチュエーションであっても音楽のセラピー的側面、つまり福祉としての音楽を意識しても音楽そのものは損なわれないと思うのである。無論、純粋なる表現としての音楽はそれ自体としての存在意義を失うどころか更に得るだろうし、主体を聴く側に置いた演奏=セラピーや有目的的音楽も表現する側に置いた演奏=芸術音楽も互いに補い合いながら発展していくだろう。要は両者の分かれ目を意識することであると言えないだろうか。