無可有庵

音楽その他ついて

ピアノ教育法から文化芸術について思考する

最近、アメリカ人子弟にもピアノを教えている。上級者ではないけど、それだけに難しさも感じている。英単語が出て来ないでもやもやしながらあとで調べるということもよくある。そしてアメリカのピアノ教育のYouTubeを見たりするのだけど、やはりアメリカとヨーロッパ、日本ではピアノ教育のアプローチが大分違う気がしている。単純化して言うと、やはりヨーロッパは伝統であり本場である。アメリカは多数のヨーロッパからの移民で成り立ってきているけど、ヨーロッパだけではない。アフリカ系、インド系、アジア系、南アメリカ系などが同じように文化を形成してきており、独自の「アメリカ文化」を築いてきた。それは芸術(アート)や音楽に顕著に表れている。ではそのヨーロッパ、北アメリカ、日本における教育やアート・音楽観の違いとは何だろうか?

まずヨーロッパは私は住んだことがないので除外するが、アメリカと日本の文化(カルチャー)の大きな違いは、アメリカではどんなにアートを極めたとしても芸術家も一市民でありその芸術がhumanity(人間性)の向上に貢献したと見做されて初めて評価を得るということだと思う。逆に理論的な裏付けがあったとしても社会を転覆させる可能性を含むものは評価されず、その代表としてマルクスレーニンが挙げられるだろう。

反対にヨーロッパ、特にドイツ・フランスの影響の色濃い日本は対照的だと思う。日本文化において「humanity(人間性)の向上」は定義されておらず、それは日本のアイデンティティを問う時に直面する問題である。逆に言うと音楽を含めカルチャーの位置付けが日本では明確でないから、技術偏重やドグマチズム(教条主義)に陥り易いのだと思う。

では音楽を含んだ文化(カルチャー)が貢献すべきhumanity(人間性)とは何か、何であるべきか?という問いは難しい。しかし私はそれこそが文化(カルチャー)の根底にあるものだと考えている。そしてそれは国家の体制にアンチな立場も取り得る。だから人間性を要請するような国家であるアメリカにおいて芸術は制限を受けており、逆に日本の方が自由であるとも言える。

しかし、いずれにしてもテクニックばかりで人の心に共鳴しない音楽というものはhumanity(人間性)どころか文化(カルチャー)にさえ貢献しないだろう。そして欧米崇拝に傾きがちな日本の文化芸術も外を追いかけるばかりではなく自らの文化(カルチャー)を真の意味で創造していくことが大事だと思う。