無可有庵

音楽その他ついて

座安先生のピアノコンサート

昨日はイギリス在住のピアニスト・座安里佳先生のコンサートへ町田に。こじんまりとした空間で、19世紀的なサロン空間というよりは20世紀絵画のアトリエのようだった。というのもエル・アナツイというガーナ出身の彫刻作品に対してご本人が受けられたという感銘が、演奏会の随所でmentionされ、選曲的にも例えばドビュッシーや武満など絵画との関連が明白な作品が多く取り上げられていたからである。

 

私がこの演奏会でもっとも示唆を受けたのは、やはり武満徹が理想と考えていたとされる音楽によって啓かれる「多者との交通」についてである。楽譜によって厳格に音の規定された西洋音楽芸術もたとえばジョン・ケージの表明した美学によって「解き放たれ」た。その後、「国境を越えた共同体」をアート(音楽や芸術)によって作ろうとする理想は、ネオリベラル市場経済が席巻し座礁してしまったかに見えるが、勿論、武満の仕事は著作や音楽作品の中である特殊性を持って生き続けている。

 

因みに私の抱いている問題意識は正にその武満が生きていた時代とこの現代との間に横たわる「差異」に関係する。多くの第二次世界大戦後の芸術が依拠していた自由や連帯への希望は果たして現代においても同じように芸術家を創作へと駆り立てるものとなっているだろうか?全てが少なくとも日本では「飽和」してしまっかに見える状況の中で、個々の創作はそうした過去の物語のー悪く言えばー惰性的持続に過ぎになくなっているのではあるまいか。そして問題は、例えば、社会全体に於いて余裕ー経済的、時間的ーがなくなっていっていることである。経済活動に直結しない営みを営む余裕がないというのは大多数が少なくともこの国で共有する実感ではないか。個々がより良い成果を求めて競い合うのは結構であるが、結果的に社会全体が貧しくなるのでは社会から支持されないだろう。音楽芸術に内在する他者との共有への指向性が座安先生の演奏会では全く毀損されておらず、そこに私は感銘を受けた。

 

私も、あるアフリカ系アメリカ人のアーティスト/ラッパーの友人が観客が一人であっても100人であっても自分がパフォーマンスに懸ける思いは全く変わらない、と言っているのを聞いて、見習いたいと思ったことがある。それこそがー基本かも知れないがー演奏芸術の本質だとようやく気付いた。

 

武満の他にもカンビッサ、クラムといった作品が聴けて、これらはよくありがちな圧倒的なテクニックや知識量の差によって奏者と聴衆が断絶されるというような経験では全くなかった。