無可有庵

音楽その他ついて

音楽療法士としてのピアノ教師

最近はお陰様で数名の生徒さんが集まり、少しずつ枠が埋まって来ています。とても嬉しい事です。レッスンは生徒さんそれぞれのニーズに沿ったものでありたいとは常々思っていますが、同時に私の音楽に求める理想像を伝えて行く側面もあり、それがなくてはピアノレッスンは成り立ちません。

 

一方で基礎や「正しさ」(それは私の経験、直感、嗜好といったフィルターを当然ながら介す)を伝える側面があり、もう一方で生徒さん個々のニーズに寄り添うという側面がありますが、それで全てではなく、「自己表現」を援けるという第三の側面があるように思うのです。例えば絵画に喩えてみましょう。何を描くか、どのような技法で描くかが本人に委ねられていたとしても指導者が定めたものであったとしても、そこには必然的に立ち現れる「個性」やその本人が意識していなかった「無意識」の領域があります。芸術表現にはそれが作曲のように「音の造形の創造」そのもののようなものから、演奏のような再現芸術のものまでありますが、表現者の意図していなかったものが立ち現れる事で新たな気付きを得るという側面があるように思います。そしてそれに伴走するのがピアノ教師であり作曲教師なのではないかと考えるのです。そしてその気付きを得ると言う事はとても療法的 (therapeutic) で、その療法は生徒の教師との療法的関係 (therapeutic relationship) から生まれるものです。楽徒と彼を導こうとする音楽の神さまの牧者との関係のようなものでもあるでしょう。

 

また、補足すればその「気付き」とは単に音楽的な内容に留まりません。やはり音楽には、言葉を基盤とする社会生活から見ればやや異質の原理に依っている、何かしら通常の社会生活では解消し切れないものが表出されている気がします。演奏であれば、楽譜を通じてその作品が表出しているであろうメタメッセージを汲み取る事、作曲であれば自己の裡から表現されるメタメッセージと向き合う事、これらが自身の音楽的な意味のみに留まらない、実人生的な意味での「気付き」を齎すのだと思います。

 

このように少なくとも三つの関係性が生徒と教師の間にあり、それらを状況によって使い分ける事が大事だと私は考えます。時に「指導者然」として厳しく動じず、時に生徒さんの意思や希望に寄り添い、時に生徒さんを自己表現から生まれる気付きへと導く。常々、柔軟でクリエイティブなレッスンをしていきたいものです。